『ねじまき鳥クロニクル』 紹介
村上春樹の代表作品の1つ、ねじまき鳥クロニクルの紹介です。ねじまき鳥クロニクルは1994年~1995年に発行された3部作構成、3冊のシリーズ本で、総ページ数が約1300ページ(文庫本換算)の長編小説となっております。
(写真:ねじまき鳥クロニクル 第1部泥棒かささぎ編(村上春樹著))
この物語を一言で説明するのは困難なことです。そして、もしそれをより分かりやすいように、順序良く話すのならば、村上春樹の文体について、あるいはその文章の本質について語ることが不可欠だと思われます。村上作品は象徴的な描写が多く、その文章は美しい比喩と暗喩で表現されています。村上作品について語るということと村上春樹の文章について語ることは切っても切れないものなのです。
しかしながら、村上春樹の文体について語ろうとすればこの本の紹介どころではなくなりそうな気がするのでここでは端的に済ませたいと思います。村上春樹の文体には先ほども申し上げた通り、美しい比喩と暗喩が含まれています。例えば、暗闇の表現について見てみましょう。
でもどれだけ目が慣れてきたところで、闇はあくまで闇だった。何かをきちんと見定めようとすると、それらの事物はあっというまにかたちをくらませて、無明の中に音もなくもぐり込んでいってしまう。あるいはそれを「淡い闇」と呼ぶこともできるかもしれない。でももしそうだとしても、その淡い闇には淡い闇なりの濃密な暗さがあった。それはある場合には完全な暗黒よりもかえって意味の深い闇を含んでいた。(引用元:『ねじまき鳥クロニクル第2部 予言する鳥編』)
このように、闇の濃淡の比喩一つをとってみてもこんなにも綺麗な表現がされているのです。闇と言えば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』なんかもオススメです。ヤミクロについての描写の場面がとても印象的です。
さて、尊敬している村上春樹の文体について語るのも申し訳ないほど頭が賢くない僕ですが何とか説明を終えたところで本の内容について説明したいと思います。
たとえば、この物語には「綿谷昇」という人物が登場しますが、この人物は岡田亨と正反対の性格をしており、度々対立を繰り返しています。岡田亨は「あるいはそういうことなのかもしれない」とよく言うように、「そう」と「そうではない」の間の折衷案に落ち着く傾向がありますが、綿谷昇は「0」か「100」かのどちらか、つまり完璧主義のような性格をしていました。生き方の多様性について考え、「僕」自身の生き方を常に自問自答を繰り返し、自分が本来望む世界と現実とのギャップに苦しみ、妥協の道を模索する岡田亨。主人公と正反対の性格で、世の中で名を馳せていく綿谷昇。水と油のような二人の関係はまさしく自己と世界について言及しているように思えます。それがこの物語のメッセージ性と繋がっているのではないでしょうか。また、他にも加納マルタや本田さんなど、多数の登場人物が現れ、奇妙な世界に誘われます。それらの人物に関わるストーリーはとても大容量のお話になっているので正面から見るだけではすべてを理解することができません。何度も読み直し、多方向から眺める必要性があるでしょう。
『ねじまき鳥クロニクル』について、クロニクルはさておき、ねじまき鳥というのはこの物語の主人公である岡田亨の自宅の近所で鳴く鳥のことを指しています。鳴き声が「ギィーギィー」で、なんだかねじを巻く音に似ていることから主人公がそういう名前をつけたことが由来しています。また、ねじまき鳥は過去の回想のシーンでも登場し、その存在は謎のベールを纏っています。『ねじまき鳥クロニクル』を読んでみて、ねじまき鳥とは一体何なのか、それについて考えてみてはいかがでしょうか。
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