【ネタバレ注意】『夜は短し歩けよ乙女』書評

こんばんは、最近記事の書き始めが「こんばんは」なのでそろそろ飽きられているのではないかと危機感を感じている私です。

さて、今回は小説『夜は短し歩けよ乙女』の書評として記事を書かせていただきます。本作品は紹介の記事でも説明した通り、とても優美な文体と世界観が魅力となっております。その作品を一度読めば、「今すぐ京都に行きたい!」と地団駄を踏むこと間違いなしです。さあ皆さん、この作品を読んで、今すぐ京都に行きましょう。

(写真:小説『夜は短し歩けよ乙女』)

冗談はさておき、そろそろ書評らしい記事を書いていきたいと思います。とは言え、この作品に限って言えばさほど物語の流れに言及する必要性は無く、その時々の、シーンの美しさについて考える方が良いと思われますので、ここでもその部分に注目しながら書いていきたいと思います。

私がこの作品の中で注目したいな、と思ったところはいくつかありますが、全体的な文章の構成からの観点からで言えばその語り口の面白さでしょうか。この小説は「先輩」と「乙女」の二人の人物の主観が語り口になっており、章ごとに、交互に入れ替わっています。そして、主観が登場人物であることで、登場人物の感情が事細かに描写されるので映画でも味わえない内的心情を味わうことが出来ます。映画では「乙女」の感情はかなり排斥されていたように思えます。しかし、小説の方では映画では語られなかった「乙女」の気持ちを知ることが出来るでしょう。例えば、以下の「乙女」の心情の描写が書かれている文章の抜粋を見てみましょう。

これだけたくさんの本が売られ買われて世を巡っているのですから、そんな偶然があって当然かもしれません。我々は無意識のうちに本との出会いを選んでいるのでしょうし、あるいは我々が偶然だと思っていても、それはたんに錯綜する因果の糸が見えないにすぎないのかもしれません。そう頭で分かっていても、本を巡る偶然に出くわした時、私は何か運命のようなものを感じてしまうのです。そして、私はそれを信じたい人間なのです。(引用元:『夜は短し歩けよ乙女』(森見登美彦著 平成二十年初版))

このように、映画ではあまり表現しづらい冗長な描写でも小説はとても美しく表現されています。人の心について知りたい、というような時には心理学について学びたいものですが中々そういうわけにはいきませんから、あるいは小説を読むことが一般人にとってはもっともな方法なのかもしれませんね。

次に、私が気になった場面と言えば、古本市場の場面で、男の子が「先輩」に向かって本の極意のものについて語る場面です。その男の子によれば、本は全て繋がっているのだというのです。出来れば、その文章について一つ一つ語っていきたいところなのですが、ここで書くにはあまりにも文章量が多いので(その量は文庫本1ページにわたります。)割愛させていただくとして、例だけ挙げていただきます。

例えば、『鬼火』という小説を書いた横溝正史が編集に携わった「新青年」という雑誌に携わった『アンドロギュノスの裔』の作者である渡辺温が仕事で訪れた先で不慮の事故にあい、その追悼として『春寒』という文章を書いた谷崎潤一郎は芥川龍之介に批判され、文学上の論争の台風の目になったのです。このように(本当はもっと続きます。続きは小説で)、文学作品は全て何かしらの縁で繋がっているということが分かります。そして、それはある意味とても温かいことだと思います。多分、森見登美彦さんもそのことに親しみを持ってしてこの文章を書くに至ったのだと思います。

さて、以上のように私が気になる点を買ってに挙げさせていただきましたが、肝心な物語の結末はどうなるのでしょうか。主人公である「先輩」は「乙女」に好意を寄せ、長い間外堀を埋め続けているが、「乙女」は中々そのことに気が付かない。果たして、その恋は報われるのか。そのことについてここでは述べることが出来ませんが、そのことはどうでもいいのです。あくまでこの作品は恋愛小説としてではなく、ファンタジーとして触れていただきたいのです。なので、もちろん受け取り手の解釈の仕方はそれぞれにお任せしますが、この物語の向かう方向性についてはそのように解釈し、頭の隅かどこかに置いといていただけると幸いです。それでは、今回もここまでとさせていただきます。

『夜は短し歩けよ乙女』の紹介及び書評については以上とさせていただき。が、また、リクエストがあれば出来るだ限りそれにお応えし、紹介及び書評を書かせていただきます。それについてはCONTACTにてお問い合わせください。たくさんのリクエストお待ちしております。それでは、さようなら。

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